インデックス省研究子罕第九(232)子罕第九(233)

子罕第九(232)

子曰。歳寒。然後知松柏。之後彫也。

子曰く。歳寒し。然る後、松柏を知る。これ後に彫(しぼ)むなり。

子曰く。厳寒の時期になれば、常緑樹の松と柏が冬に凋まないことを知るだろう。

この章は、難局になれば心の強い人が、はっきりと分かるという意味で解釈されており、論語の中でも含蓄のある有名な章の一つです。実は、論語本文中に「松」と「柏」という文字は対で表れ、二章だけにしか使われていません。この子罕第九(232)と八佾第三(061)です。八佾第三(061)では、孔子の弟子である宰我が、魯の哀公の質問に答えて、土地神の「社」の御神木について説明します。夏の時代は「松」を植え、殷の時代は「柏」を植えましたが、周の時代以降は、「栗」を植えるようになりました。それは、栗の音「リツ」が示すように人身御供(ひとみごくう)を用いて民を戦慄させることが目的ですと伝えます。

孔子は、宰我のおこなった哀公への説明を聞き知って「成事は説かず。遂事は諫めず。既往は咎めず。」と述べたことになっています。ここで孔子が「遂事は諫めず」として既成事実を認めていることは、君主の行きすぎを黙認せよと教えているようで「普通の場合ならこれはおかしい」のです。しかしそれについては魯の哀公自身が、社の祭に人身御供を用いた上で、素知らぬ顔で質問をしているとすれば、回答の仕方によっては深入りし過ぎて宰我の立場が危うくなると孔子が感じたためではないかという宮崎先生の解釈があります。

また論語には、時代背景上そうとしか記述出来なかった可能性もあります。つまり「成事は説かず。遂事は諫めず。既往は咎めず。」とは孔子の言葉ではなく論語編集の際に差し換えられた可能性があります。実際に孔子が述べた言葉は違うのではないでしょうか。その答えとなるのが子罕第九(232)と子罕第九(233)の二章だと私は感じました。

子曰。歳寒。然後知松柏之後彫也。

子曰く。歳寒し。然る後、松柏の後に彫(きざ)むを知るなり。

子曰く。厳寒の時期に、松柏に導かれて後に記すことを知るだろう。

この章の解釈変更の端緒は「後」という字にあります。従来の句読の切り方では「然後知松柏之後彫也。」を「然る後、松柏の後(おく)れて彫(しぼ)むを知るなり。」とは読めずに「然る後、松柏の後(のち)に彫むを知るなり。」と読まなければならないと思います。つまり松柏が後(おく)れて凋むのではなく、松柏の後(あと)に何かが凋むという意味になってしまいます。そのため従来の解釈を行う場合には句読の切り方を変更して「然後知松柏。之後彫也。」としました。

次に「彫」という字です。従来の解釈では「凋」にあてた用法として「彫(しぼ)む。」と読まれています。私は、これを彫刻の「彫」として「彫(きざ)む」ことを表していると考えてみました。論語の文章は、もともと竹簡の上に漆で書かれたようです。「彫」は字中に「全部にまんべんなく行き渡る」という意味を持つ「周」を含み、横の三本線が模様を表します。つまり全体に細かい模様をつけるという意味です。この字を竹簡に「書き付ける、記す」という意味で使っていると私は思います。また「彫」は「周人は栗を以う。」の「周」にも通じており、これを周と三に分解すれば、「然後知松柏。之後周三也。」「然る後松柏を知る。これ周の後の三(言)なり。」と意味をくみ取る読み方も出来そうです。この読み方の場合の「之」とは子罕第九(233)を示します。つまり松柏の後に子罕第九(233)「子曰。知者不惑。仁者不憂。勇者不懼。」「子曰く。知者は惑わず。仁者は憂えず。勇者は懼(おそ)れず。」を置くことを意味します。つまり孔子は、宰我に対して「成事は説かず。遂事は諫めず。既往は咎めず。」と三回重ねてたしなめたのではなく、三回重ねて「おまえは勇者だな。」と、むしろ誉めたことを伝えているように思えます。しかし、その事実は、周代以後に配慮して本文中に場所を変えて隠されたのだと思います。

しかし、論語本文中から「松」と「柏」を探せば、必然的に導かれてこの章にたどり着きます。それはまさに歳が寒くなって他の木々が落葉することで松柏が浮き彫りになることのようです。