1. 演劇

演劇

演劇とはなにか。

人間が現実世界で遭遇する事象を抽象化して、部分的に再現したものや実験的に構成したものを演劇という。舞台装置や効果音、音楽、衣装、台詞などが準備されて練習を重ねた俳優がその場面を演じている。そして観客を感動させる。しかし現実の世界にはもっと多様な要素があり、人間関係や社会的、文化的な背景など、もっと複雑な要素が絡み合っている。ゆえに演劇というものは現実世界のある場面を完全に再現したものではない。一見当たり前のことのようだが、実写映画でもアニメーション映画でも、話としてのまとまりがあり、ひとつの世界が構築されてはいるが、それは完全再現ではない。例えばアニメーション作品などで背景の人物が静止して描かれるような表現方法がある。背景すべてを動かすまでの情報は必要ない。全体の幹をなす筋書きがはっきりとしてさえいれば、あとは観客側が不足情報を想像力で補って鑑賞するものなのだろう。つまり演劇とは、発信する側が完全な情報を与えて完成しているものではなく、受け手となる観客側の脳内の想像力、再構成力に依拠して完成しているという事実が存在している。そのように観客に依拠しながら、時間軸や人間関係など、包括的に順を追ってこそ表しうる瞬間というものがあるのだから、その感動を伝えることができれば素晴らしい演劇なのだと思う。

再構成力がより求められる文学

ところで、映像や音楽によって補強されていない文学作品の場合は、インクが載った紙だけで読み手側に場面の構成を委ねているのだから読み手に依拠する要素がより大きいのかもしれない。もしくは文字で説明できる分、表現が演劇よりも容易な面もあるのかもしれない。いずれにせよ本を読み進めていくと、映像が頭に浮かんでくるのは、読者の想像力を頼りにしているということになるだろう。当然のことながら、万人の想像力を最大限に引き出しうる文学的表現法が尊いことは、いうまでもないことではあるが……。

情報の不完全性の一般的傾向

そしてその不完全性は演劇や文学だけにいえることではない。多くの職業が顧客の要求をすべて満たしているわけではないのではないか。例えば専門家に何事かを相談したとする。医者に病気のことを相談したとする。その時、完全な答えをもらっているわけではないこともあるだろう。その説明を聞いて、受け手側が自分の想像力を働かせて、無意識の内に許容、寛容の精神で補って納得している場合も多いのではないだろうか。

完全な答えが求められる職業

例えば、あいまいなお米とか、不完全な家などというものはあってはならない。だからもの作りの現場では、不完全さは通用しない側面がある。しかしブランド品はそうではないだろう。丁寧な縫製。品質の良い革。熟練の技術なるものは、受け手の想像力で補っている面も大きいに違いない。しかし、そうした想像力が通用しない厳しい職業も存在していることは間違いない。

想像通りであること

常に100%が求められる厳しい職業を除いて、多くの職業では、文化的背景、過去からの社会的な常識の積み重ね、先代からの信頼関係などに助けられ、受け手の想像力に補われて一人前に扱ってもらっている側面があるのではないか。それは、おかげさまの中にあるという気づきに他ならない。だからこそ、補われている想像力に恥じない努力で、自己実現をめざす姿勢が問われているのだろう。