1. 顔淵第十二(288)N

顔淵第十二(288)論語ノート

子張問崇徳弁惑。子曰。主忠信徙義。崇徳也。愛之欲其生。悪之欲其死。既欲其生。又欲其死。是惑也。

「子張、徳を崇び惑いを弁ずるを問う。子曰く、忠信を主とし義に徙(うつ)るは徳を崇ぶなり。これを愛しては其の生を欲し、これを悪んでは其の死を欲す。既にその生を欲し、又その死を欲するは是れ惑いなり。」

子張は徳を貴んで、惑うことなく物事を判断して実行する方法を孔子に問います。孔子はその問いに対して、忠信を主とすることを述べます。忠信を主とするとは何でしょうか。「忠」は自身の心に誠実であることであり、「信」は言行を一致させて大衆を欺かないことによって得られる大衆からの信頼だといえます。その忠信を主として、困難であっても社会的に正しい道とされる「義」に進むことが、徳を貴ぶことになると孔子が述べます。続いて「愛之欲其生。悪之欲其死。」とあります。之を愛するとは何でしょうか。それは学而第一(005)「千乗の国を道びくには、事を敬しみて信あり、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。」や学而第一(006)「弟子、入りては則ち孝、出でては則ち悌、謹みて信あり、汎く衆を愛して仁に親しみ、行って余力あれば則ち以て文を学べ。」にあるように民=大衆=百姓(ひゃくせい)を愛すると考えるべきだと私は思います。そしてここを大衆を愛して其の生きることを欲すると読めば、この章が顔淵編の(285)(287)に続く流れの中にあることの意味を知ることができます。顔淵第十二(287)は、年饑えて用が足りない時には減税を行い、百姓とともに不作を忍ぶ立場に立つことが君主にとって必要だと述べます。もしも君主が不作の年にも増税を行い年貢を厳しく取り立てるなら百姓の暮らしは成り立たず、百姓からの信頼を失うことになるでしょう。そして顔淵第十二(285)は「民無信不立」「民は信無ければ立たず。」として民=大衆=百姓(ひゃくせい)の信頼が無ければ政治は成り立たないと述べます。いつの時代でも愛するとは生きるための必要に迫られて行動を共にすることであり、顔淵第十二(287)の「百姓足らば、君孰れと与にか足らざらん。百姓足らずんば、君孰れと与にか足らん。」の通り百姓があればこそ君主があるという関係を理解することが必要です。その上で顔淵第十二(288)を読めば例えば不作の年に減税を行うことは大衆と共に立ちその生を欲することになり、増税を行えば大衆を悪んでその死を欲することになることを述べているのでしょう。これが孔子の答えであり、取るべき道は既に顔淵編(285)(287)で述べられている通りです。だからどのように行動するべきかに悩むこと自体が既に惑いにほかならないと結論付けているのでしょう。

また一つの可能性ですが、里仁第四(070)「苟くも仁に志さば悪むなきなり。」の章を、この顔淵第十二(288)の間に挿入すればもっとすっきりするように感じます。「子張、徳を崇び惑いを弁ずるを問う。子曰く、忠信を主とし義に徙るは徳を崇ぶなり。これを愛しては其の生を欲し、これを悪んでは其の死を欲す。」「苟くも仁に志さば悪むなきなり。」「既にその生を欲し、又その死を欲するは是れ惑いなり。」

里仁編は里仁第四(069)において仁者のみが能く人を好み、能く人を悪むといいながら里仁第四(070)において「苟くも仁に志さば、悪むなきなり。」とあります。この前後二章は相矛盾するように感じられます。この里仁編の流れからいえば、里仁第四(070)のいう「悪むなきなり。」とは、誰を悪むなきなりなのかを明らかにしておきたいところです。その答えが、この顔淵第十二(288)にいう民を悪むなきなりとすれば良く通じると私は思います。そして里仁第四(071)で富貴と貧賤について論じて仁の道に外れて富貴を得ることなく、仁の道に外れて貧賤の立場を免れることもないと続くことは、この顔淵第十二(285)(287)(288)の伝える内容に良く通じていると思います。

この顔淵第十二(288)は本来文末に「誠不以富。亦祇以異。」と続きます。この文は季氏第十六(432)の文頭に来るべきものが誤って挿入されていると考える説があります。この説が後々重要な意味を持つと思われますが、私もその考え方を支持しています。ちなみに、「誠不以富。亦祇以異。」とは、おそらく「誠不以富。亦祗以異。」であり「祇」は「祗」の剥落であると私は思います。そのため、この部分の読みは「誠は富に依らず亦異なるを以て祗(つつし)む。」であり、その意味は「民の誠意は富によって生み出されるのではなく、富でない別のものによっても民は君主を尊び礼をつくす。」だと私は思います。