1. 説明する

説明する

日常の経験や、単純な過去経験の積み重ねの上に、複雑な事象の理解があるとすれば、ある物事をより簡単な過去経験に分解して理解できるように説き明かすことを説明するという。説明には、自己顕示欲の発揚たる自慢談義と、純粋な使命による説き明かしがある。聞いている側からすれば、知らないことを教えてもらう過程となる場合と、上から目線を浴びながら既に知っていることを聞かされる場合とに分かれる。説明とは話者の自己満足に付き合わされて無知の聴衆を演じさせられることでもある。そういう不快感を味わいながらどれだけそれに耐えれば良いのだろうか。それで相手が向学の満足を得られるのであれば、こちらは黙って受け入れておけば良いのだろうか。知った口を利かれたり、諭されたりすることが、屈辱に感じられることもあると思う。「誰に物を言っているのか。」と虚しくなることもある。故に、説明をする際には、相手を自身の自己満足の道具にすることがないように常にどこまで説明すべき対象者であるか自問しながら進めると良いと思われる。

しかし、逆もある。未熟な若者がしゃべっている。説明の機会を得て自己成長につなげる場面に遭遇することがある。しかしプライドの高いベテランは、そんなことはみんな知っている。言わなくても解るなどと、若者の成長機会を奪って恥じない。自身のプライドが傷付けられるのかもしれないが、人を育てる観点がないのが寂しい。あなたのためだけに組織があるのではないと言わなければならないだろう。

だからこそ、お互いに了解済みで、説明し合うことを目的としたゼミナールという学習方法がある。自分で説明する。相手の説明を聞く。そういう機会を得て向学に繋げるという観点も必要だ。そういう意識をもって日常に臨めば良いのかもしれない。

ところで、あまりに難しい、抽象的な理論の場合、過去経験に置き直したり分解したりできないものもある。そういう理解できないものは繰り返して学習すればよい。反復しながら前回の学習経験を想起することで、記憶が繋がるという喜びを味わうことができる。そうした時差の繋がりの喜びを重ねて、それを糧にして、反復し、過去経験の蓄積として、立体的な理解に高めていくことができる。学習とは概ねそういうことだろうし、説明をつけ難いことを理解する過程とは概ねそういうものだろう。