魚の内臓のことを普通にワタと呼ぶ。現代においても聞きなれた言葉と思う。一方で、綿(わた)といえば座布団や縫いぐるみの中に入っている物も「わた」である。モノの中身をワタと呼ぶのだとすれば、この内臓のワタと座布団の「わた」とは、どちらかが他方の比喩表現だろうか。
ところで人の進化の過程からすれば、まず狩猟が先で、食物の栽培はその後になるだろう。獲物をしとめて腹を裂き、肉を食す技と、綿花から糸を紡いで、それを織物に仕上げていく技術。さらにその習得を前提として織物の間に綿を詰める技術を比較するとなれば、肉を食す技が先に来るに違いない。
さらに転じて、広辞苑によれば、海を「ワタ」と呼ぶとのこと。海は「産み」に通じており、内より産み出す意味。また表層を意味する川(皮、側)に対して、深層を意味するものが「海」であり、「膿」にも通じる。つまり「うみ」という言葉からは溜まっているものという意味を読み取ることができる。
体の中に溜まっているものを「うみ」と呼び、「ウミ」が「ワタ」なのだとすれば、内臓と綿花は、いずれかが他方の比喩表現というのではなく、両方が「内包されるもの」という意味のワタという言葉によって表されていると考えることもできる。時系列的には、内臓をワタと呼ぶ方が先に来るのではないだろうか。
また、自分自身のことを「わたし」という。この言葉は「渡し」にも通じるものと思われる。渡すとは失うことであり、渡すとは、岸から岸、港から港へ渡すこと。つまり海を渡ることでもあり、人と人とを繋ぐこと。そして生み出すことにも通じるものと思えてくる。こうして「私」の役割も見えてくる。
このように根源的なことについて音が共通しているのは、原始日本語を浮かび上がらせる端緒として、大変興味深い。