1. 八佾第三(062)N

八佾第三(062)論語ノート

子曰。管仲之器小哉。或曰。管仲倹乎。曰。管氏有三帰。官事不摂。焉得倹。然則管仲知礼乎。曰。邦君樹塞門。管氏亦樹塞門。邦君為両君之好。有反坫。管氏亦有反坫。管氏而知礼。孰不知礼。

子曰く。管仲の器は小なるかな。或るひと曰う。管仲は倹なるかを。曰く、管氏に三帰有り。官事は摂せず。焉んぞ倹なるを得ん。然らば則ち管仲は礼を知るか。曰く、邦君は樹もて門を塞ぐ。管氏も亦た樹もて門を塞ぐ。邦君が両君の好みを為すには反坫あり、管氏も亦た反坫あり。管氏にして礼を知らば孰か礼を知らざらんや。

子曰く。「管仲の器は小さいな。或るひとが言ったよ。管仲は倹なるかを。彼曰く『管氏は何度も事を繰り返して官事を兼ねない。どうして倹約といえましょう。』と。それならつまり管仲は礼を知って行動しているのだろうか。それについても彼が言ったよ。『邦君は樹で門を塞ぎます。身分をわきまえず管氏も同じく樹で門を塞ぎました。邦君が両君の好みを為すには反坫を用います。管氏もまた身分をわきまえずに反坫を用いました。管氏が礼を知っているのなら誰が礼を知らないことになりましょう。』と。」

この章は、「管仲」と「管氏」という二つの言い方があえて使い分けられています。まず憲問第十四(349)で「桓公が兵車によらずに諸侯を九合したのは管仲の力だ。子路のいう不仁があっても、この功績は同じくらいに価値がある。この功績は同じくらいに価値があるよ。」というように孔子は管仲のことを「管仲」と呼びます。それは憲問第十四(350)でも同様です。論語の中に管仲の名が出てくるのは、あと憲問第十四(342)だけです。筆記者である弟子も孔子との対話の記録であればこそ管仲を「管仲」として表現していると考えられます。この時代においても「氏」という言い方が敬称か特定の身分を表しているとすれば、孔子は管仲の分を見定めた上で「管仲」と呼んでいるのだと思われます。ここで「管氏」という言い方は孔子が或るひとの言をそのまま引用したためにあえて「管氏」と記されていると解する方が自然でしょう。現行解釈では孔子が或るひとの疑問にこたえて「倹でなく礼も知らない管氏」についての説明を行ったことになっています。しかしそれでは孔子の言葉に「管仲」と「管氏」という表現上のゆらぎがあることになり何とも不自然です。

そもそも孔子の認識では、管仲には「桓公が兵車によらずに諸侯を九合」する上での功績があるのです。そこに或るひとが管仲の倹約しないことと礼を知らないことについて意見を言います。それを聞いた孔子が感想として述べた言葉が「管仲の器は小なるかな。」なのでしょう。それに続く言葉はすべて孔子が弟子に対して、或るひとから聞いた管仲への評価を説明していると考えるのがよいと思います。「管仲倹乎」「管仲は倹なるか」と孔子が自問し、続いて或るひとの「管氏」は云々という言葉を引用する。「然則管仲知礼乎」「然らば則ち管仲は礼を知るか」も孔子の自問であり、それに続く「管氏」は云々も或るひとの言葉の引用という解釈です。しかし器がどうであれ管仲の功績について孔子は正しく評価をしているはずです。

私は、知らないことを解釈することができない関係上、現代語訳については知らないままの使い方をしてあります。しかし、「管氏に三帰有り。」については詩経に「帰」が嫁ぐの意味に使われているとしても、正妻が三人あると解釈するには少し無理があるように思います。ここは「帰」を一巡りして同じ場所に戻ってくるという意味に解釈し、「三」は三回か、もしくは複数回という意味に考えて、何度も事を繰り返して役人の務めを省略したり統一したりすることなく行うという趣旨として読むべきだろうと思います。その上で、孔子は「然らば則ち管仲は礼を知るか」といいます。この「然らば則ち」は論理の帰結として続く言葉を述べることを意味します。つまり「事を繰り返して官事を兼ねない」のはそれぞれの仕事を尊重すればこそだと解釈すれば、管仲は礼を知って行動しているのではないかという可能性が浮かびあがります。孔子はその可能性を自問しているのでしょう。私は妻が三人いることが「然らば則ち」として礼を知ることにはならないと思います。そして孔子が管仲の「繰り返し」に礼の可能性を考えたことを或るひとが適切に察して、「管氏」の身分をわきまえない模倣行為を示して批判を加えたのだと思います。