1. 八佾第三(061)N

八佾第三(061)論語ノート

哀公問社於宰我。宰我対曰。夏后氏以松。殷人以柏。周人以栗。曰使民戦栗。子聞之曰。知者不惑。仁者不憂。勇者不懼。

(正式)哀公問社於宰我。宰我対曰。夏后氏以松。殷人以柏。周人以栗。曰使民戦栗。子聞之曰。成事不説。遂事不諫。既往不咎。

哀公、社を宰我に問う。宰我対えて曰く、夏后氏は松を以い、殷人は柏(はく)を以い、周人は栗(りつ)を以う。民をして戦栗せしむるを曰うなり、と。子これを聞いて曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。

この章では孔子の弟子である宰我が、魯の哀公の質問に答えて、土地神の「社」の御神木について説明をします。夏の時代は「松」を植え、殷の時代は「柏」を植えましたが、周の時代以降は、「栗」を植えるようになりました。それは、栗の音「リツ」が示すように人身御供(ひとみごくう)を用いて民を戦慄させることが目的ですと伝えます。

正式にはこれに続く孔子の言葉は、「成事不説。遂事不諫。既往不咎。」「成事は説かず。遂事は諫めず。既往は咎めず。」です。成ったことは言わない、遂行されたことは諫めない、過去のことは咎めない、という現状容認の発言です。普通ならおかしい発言ですが、それは魯の哀公自身が社の祭に人身御供を用いた上で、素知らぬ顔で質問をしているとすれば、回答の仕方によっては深入りし過ぎて宰我の立場が危うくなると孔子が感じたためではないかという宮崎先生の解釈があります。

しかし、論語を読み進めて行くと子罕第九(232)に「子曰く。歳寒し。然る後、松柏の後に彫(しぼ)むを知るなり。」とあります。「松」と「柏」という文字は、この八佾第三(061)と子罕第九(232)だけにしか使われておらず、これを松柏の後(うしろ)に彫(きざ)むべきものを知るだろうという意味に読むとすれば、八佾第三(061)に現れる孔子の言葉は「成事不説。遂事不諫。既往不咎。」ではないという意味を表すように感じられました。

そして続く子罕第九(233)には、三回繰り返される言葉がありました。それが「知者不惑。仁者不憂。勇者不懼。」です。「知者は狭い枠にとらわれない。仁者は考えも行動も滞らない。勇者は事態を懼(おそ)れない。」という意味の繰り返しは、八佾第三(061)における、宰我に対する孔子の答えとして、よりふさわしいものになっています。

周代以後、社の祭に人身御供を用いるのは民を戦慄させるためだと発言した宰我を、孔子が評価したと記すことについては、論語の編集上避けられた可能性があります。八佾第三(054)に「子曰。周監於二代。郁郁乎文哉。我従周。」として周を積極的に評価する孔子の言葉があります。こうした趣旨から八佾第三(061)が周王朝に否定的な印象を与える内容にならないように修正された可能性があります。しかし論語編集者として、本来の孔子の言葉を削除せず、子罕第九(233)に置き、その説明を子罕第九(232)で行ったと考えると、論語を理解する手がかりになるように思います。