1. 八佾第三(055)N

八佾第三(055)論語ノート

子入太廟。毎事問。或曰。孰謂。鄹人之子知礼乎。入太廟。毎事問。子聞之曰。是礼也。

子。太廟(たいびょう)に入りて事ごとに問えり。ある人曰く。孰か謂う。鄹人(すうひと)の子、礼を知るか。太廟(たいびょう)に入りて事ごとに問えり。子、これを聞いて曰く。これ礼なり。

孔子が、君主の祖先のみたまやに入りて祭りを助けた際、事ごとに先輩に聴きながら行った。ある人が言った。「誰が言ったのか。鄹人の子(魯国に属する鄹なる邑の子の意味で、孔子を指す。)が礼を知ると。太廟に入りて事ごとに問うているではないか。」孔子がそれを聞いて言った。「これが礼なのだ。」

初めて行うことだけに関わらず、集団で行うことについては、それぞれの意向を確認しながら、不満や批判の無いように配慮しつつ進めることが良いと思われる。また、参加者の中には、問題点に気づいていながら黙っている人もあるため、これで良いか。間違いないかと尋ねながら行うことで、結果的に調和の中で物事を進められることは経験的に理解できる。しかし、いちいち尋ねずに、独断的に進める方が、威厳があると映ったり、逆に、何でも尋ねていると頼りないと捉えられたりする場合がある。本章は、物事の成功に必要なことが、威厳ではないことを述べている。尋ねたり、確認したり、意思疎通を図る過程が、傍から見て、頼りなげに映るとしても、それは大切なことだという見本を示している。それは述而第七(157)の暴虎馮河にも通じている論点だと思われる。