1. 述而第七(157)N

述而第七(157)論語ノート

子謂顔淵曰。用之則行。舎之則蔵。惟我与爾有是夫。子路曰。子行三軍則誰与。子曰。暴虎馮河。死而無悔者。吾不与也。必也臨事而懼。好謀而成者也。

子、顔淵に謂いて曰く。之を用うれば則ち行い。之を舎(お)けば則ち蔵(かく)る。惟、我と爾と是れ有るかな。子路曰く。子。三軍を行(や)らば則ち誰と与にせん。子曰く。暴虎馮河とあり。死して悔い無きもの。吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼る。謀りごとを好みて成者なり。

孔子、顔淵に向かって言うには。「用いられれば、行うが、捨てられれば、出しゃばらぬ。そういう者は私とお前だけだな。」子路が言うには。「先生は三軍を動かすならば、誰と与にされますか。」「古語に『暴れ虎が河に飛び込む』とある。私は死んで悔いなしというような者とは与に行動しない。必ずや事に臨んで懼れ、策を練ることを好んでこそ成功をつかむ者となるものだ。」

本章の前半は、論語に繰り返し登場する論点となる。登用されれば力を発揮するが、そうでないなら黙っているというもの。何故もっと積極的に自分を売り込むことを善しとしないのか。論語的には、黙って努力を続けていけば自ずから自身の価値が高まり、黙っていても登用される。登用されないのは自分に価値がないからだと考えて、すべて自己成長の方向へ注力せよということになる。

そして後半は、暴虎が力余って河へ飛び込んでしまうような、勇ましいだけのことを戒めている。事に臨んでびくびくとして、さまざまに思いを巡らせてこそ、成功者となると教えている。実はこれこそ重要論点である。たいていは考えすぎずに行動すれば良いという現場感覚がある。しかし、人間誰しも、初めてのことには内心びくびくするものだし、どういうふうに考えたらよいか、どうすれば良いか、まったく見当もつかずにおそれてしまうことがある。論語はそれで良いと教えている。そういうふうに、恐れて悩んで当然だと教えている。びくびくして良い。それで正しい。自信をもって懼れ続けよう。