1. 陽貨第十七(459)N

陽貨第十七(459)論語ノート

子曰。唯女。子与小人為難養也。近之則不孫。遠之則怨。

子曰く、ただ女(なんじ)。子(こ)と小人とは養い難しと為すなり。これを近づくれば不孫、これを遠ざくれば怨む。

子曰く、おいお前(子貢)、子供と小人とは育て難いものだ。身近によせてやさしくすれば遠慮がなくなり、突き放してみれば怨みに思う。

この章は、前章の陽貨第十七(458)で子貢が孔子に対して当てつける発言をしたことを評して発せられた孔子の言葉だといえます。従来解釈は「女子と小人」とされていますが、陽貨第十七(442)「子曰。由也。女聞六言六蔽矣乎。」「子曰く、由や、女(なんじ)は六言六蔽を聞けるか。」とあり、また陽貨第十七(444)「子謂伯魚曰。女為周南召南矣乎。」「子、伯魚に謂いて曰く、女(なんじ)は周南・召南を為(おさ)めたるか。」とあります。そして陽貨第十七(455)「於女安乎」「女(なんじ)において安きか。」とあります。陽貨篇においては全て「女」は「なんじ」の意味で用いられていますので陽貨第十七(459)でも「女」は「なんじ」と読む可能性があります。そして「養い難い」という言葉があるため「子」はいずれにしても「子供」の意味で使われているはずです。ちょうど陽貨第十七(455)にも「子」を「子供」として使う用法が見られます。

陽貨第十七(459)は、これまで人生訓を収録する論語の中で差別的な印象を拭えない残念な章として読まれて来たはずです。「女子と小人」が養い難いとは、あんまりだと思います。しかし論語の本来の読み方は、先に記した通りだと思います。「唯女。子与小人為難養也。」と区切るのが本当で「女子」ではなく「女(なんじ)」であり「女(なんじ)」とは子貢のことです。ここでも訓詁学者は公冶長第五(095)と同じように子貢に遠慮したのではないでしょうか。そして遠慮と引き替えに「女子」と読んでしまったのではないかと私は思います。しかし、実際には陽貨第十七(458)で子貢が孔子に対して当てつけ発言をしたことを受けて、孔子は子貢に対して、そんな当てつけ発言をするとは子供と同じで扱い難い「小人」だと語っているのだと思います。いかにも人間くさい不満の表し方ではないでしょうか。孔子と子貢はこんな調子で言い合いをするほど気持ちが通じあっており仲が良かったのでしょう。