1. 陽貨第十七(458)N

陽貨第十七(458)論語ノート

子貢曰。君子亦有悪乎。子曰。有悪。悪称人之悪者。悪居下流而訕上者。悪勇而無礼者。悪果敢而窒者。曰。賜也亦有悪乎。悪徼以為知者。悪不孫以為勇者。悪訐以為直者。

子貢曰く、君子も亦た悪むことあるか。子曰く、悪むことあり。人の悪を称する者を悪む。下流に居りて上を訕(そし)る者を悪む。勇にして礼なき者を悪む。果敢にして窒がる者を悪む。曰く、賜や、亦た悪むことあるかな。徼(もと)めて以て知と為す者を悪む。不孫にして以て勇と為す者を悪む。訐(あば)いて以て直と為す者を悪む。

子貢曰く、君子も亦た悪むことが、おありですか。子曰く、悪むことがある。人の悪を天秤にかけることを悪む。下流に居て上を訕(そし)ることを悪む。勇ましくても礼のないことを悪む。決断が早く行動に着手しても、結局身動きが取れなくなることを悪む。子貢曰く、私も悪むことを申してよろしいですか。得られないものを得ようすることが真理の探求だと思うことを悪みます。引き下がらないことを勇ましいと思うことを悪みます。面と向かって仰ることが正しいと思うことを悪みます。

この章は孔子と子貢の対話です。子貢が孔子に向かって「先生は悪むことがありますか」と質問をします。すると孔子は、子貢の日頃の態度を念頭において子貢の課題を羅列します。例えば「悪称人之悪者。」の「称」とは重さを比べる原義をもつ字ですから、この文は「人の悪を比べることを悪む」という意味になります。これは憲問第十四(363)「子貢方人。子曰。賜也賢乎哉。夫我則不暇。」「子貢人を方(たくら)ぶ。子曰く、賜や賢なるかな。我は則ち暇あらず。」に通じています。「方」とは比べるという意味も含み、孔子が人物評論に熱心な子貢を皮肉ったことを伝える章とすれば趣旨が重なります。また「悪果敢而窒者。」「果敢にして窒がる者を悪む。」については、思い切りは良いが行き詰まって身動きが取れなくなることを示していますから為政第二(029)「子貢問君子。子曰。先行。其言而後従之。」「子貢君子を問う。子曰く、先ず行え。其の言は而る後に、これに従う。」に通じています。孔子の言は相手に応じて適切に発せられますから、子貢には、弁は立つけれども行動に移すことに課題があったと推測すれば、果敢にして窒がる者を悪むというのも、子貢に対して課題を指し示す言葉だと読むことができます。このようにして孔子は子貢の成長のための課題を並べて質問に答えたのでしょう。

すると子貢は黙っていられずに同じように孔子の事を評して悪むことを並べます。「悪徼以為知者。」「徼(もと)めて以て知と為す者を悪む。」「徼(もと)める」とは得られそうもないことを得ようとすることであり、仁の道を求め続ける孔子へのあてつけの言葉としては辛辣だと思います。次に「悪不孫以為勇者。」「不孫にして以て勇と為す者を悪む。」「孫」は「遜」と同じく「相手を敬って引き下がる」意味であり、「不孫」とは引き下がらないことになります。これも、不仁な君主には仕えない孔子を意味する言葉に読めます。そして「悪訐以為直者。」「訐(あば)いて以て直と為す者を悪む。」「訐(あば)く」の原義は面と向かって言葉でつっかかることであり、直とは人の本心に基づく肯定的な行動を意味しますから、つまり面と向かって私(子貢)にそのようなことを仰ることを正しいとされるのはどうなんでしょうね」という趣旨でしょうか。

この章は孔子と子貢(先生と生徒)が信頼関係を前提とした当てこすりあいをしていると読むのが実際なのだと思います。論語には、このような人間くさい会話さえも収録されているとは驚きです。そして、このやり取りは次の章に続きます。