1. 学而第一(014)N

学而第一(014)論語ノート

子曰。君子食無求飽。居無求安。敏於事而慎於言。就有道而正。焉可謂好学也已。

子曰く。君子は食に飽くを求むる無く、居に安きを求むる無く、事に敏にして言に慎み、道有れば就きて正せ。焉んぞ、学を好むと謂うべきやのみ。

「子曰く。諸君は飽食を求めず、安住を求めず、民の信を得ることに敏にして主君への言葉に慎重であれ。君主に道有れば仕官して正しく務めよ。どうして(趣味のように)学を好むということのみで良いものか。」

「事に敏にして」とは、事というのが学而第一(005)「事を敬みて信あり」と顔淵第十二(285)「民は信無ければ立たず」から考えて、用を節し、民を使うに時期を見て行うというように民の立場に立った政治を、きびきびと行い信を得よという意味に解したいと思います。そして「言に慎む」とは、季氏第十六(426)「君子に侍するに三愆有り。」の心得と思われます。主君に仕える上で発言に慎重であれという意味です。そして「道有れば就きて正す」とは衛霊公第十五(385)で孔子が蘧伯玉について「邦に道あれば仕え、邦に道なければ、巻いて之を懐にすべし。」という点を感嘆している趣旨で、君主が道を尊べば仕官して正しく務めよという意味だと思います。

私は、この章についてずっと違和感を持っていました。最後の「学を好むと謂うべきのみ」という言葉が何か付け足しのように感じられて違う章に付くべき一節が間違って挿入されているのではないかと考えることもありました。しかし、文をよく見ると「焉」が有ることに気づきました。これは「どうして学を好むというだけで良いものか。」という反語の形に読むのだと思います。この焉字は文頭についた場合には焉Aで「どうしてAだろうか。」と疑問や反語の意味を表します。そして文末に付く場合にはA焉で多くが文の強調です。これはつまり「Aだ。どうしてAでなかろうか。」という意味であり、A焉notAということであり、「notA」が省略されていると考えると理解しやすいと思います。

その観点で、この文章を見ると、もしも従来通りの説に従えば「君主に道有れば仕官して正しく務めよ。どうして務めなくてよいものか。」という強調を表すと考えることができます。それはそれでも良いのですが、そう読むと続く文章が、「学を好むというべきのみ」であれば、やはり文章のつながりが悪いと言わなければなりません。だからこそ、やはりこの章においては「焉可謂好学也已」として「どうして学を好むということのみで良いものか。」と考える方が自然だと思います。そして「焉可謂」というような用法としては子張第十九(483)に「焉可誣也」を「焉んぞ、誣(し)うべけんや。」と読む箇所があるので可能であると考えます。

この章は孔子の言として、学ぶということが社会から切り離された趣味のようなものではなくて政治を行うことと一体のものであり実践の中で活かされるべきものだから「諸君は何故、学を好むということのみでいいものか。君主に道有れば仕官して政を正しく行え。」と弟子を鼓舞しているものと読むべきだと思います。また学而第一(007)「賢賢たるかな易(とかげ)の色や」の章とも合わせて考えると、学ぶということは日常的なことも含めて自身の行動の哲学を身につけることでもあるようです。

実は、この章とあわせて顔淵第十二(284)の「焉可謂明也已矣」も再考したいのですが、私には、この章の意味がつかめないので今後の宿題としておきます。