1. 好き

好き

人のあらゆる快楽の源泉は、生理的欲求の充足である。そのため、好きとは過去の生理的欲求充足の経験の記憶といえる。

例えば「みかんが好き」、「バナナが好き」ということは、みかんを食べた経験が、それによって得られる食欲の充足による快感として記憶に残り、次にみかんを見たときに、その食欲充足の快感を思い起こさせることを意味する。それが「みかんを好き」という状態を意味する。「あの人が好き」、「この人が好き」というのは、集団欲の充足といえる。「読書が好き」、「学習が好き」という知的生産活動への興味は、子供においては親の保護を受ける安心感や喜びの経験に由来するか、もしくは、集団欲の擬似的体感といえる。人によって生理的欲求充足の経験はさまざまであり、人生経験が積み重なるごとに、好きな物の体系が、脳の記憶として積み重ねられる。このように、好きということは、主に生理的欲求充足の経験の記憶から生み出される。

ところで、人は生きるために必然的に協力して行動する=愛し合うのであり、愛することによって好きな物が生み出されるという側面を見る必要がある。自分の過去の経験による好きな物の体系=価値観に照らして、良しとする相手を選んで愛し合う対象とするが、その愛し合うことがまた、生理的欲求充足の経験を生み出し、好きな物の体系を築きあげていくことになる。

人から好かれるとき、なぜ自分を好きといってくれるのか解らない。誤解されている。表面的に見られているのではないかと思う。一定の時間を過ごすと、見透かされてしまうのではないかと恐れる。それは、愛し合うことによって好きなものが生み出されることをまだ十分に理解していない青年期の畏れといえる。

愛することは、新たに好きなものを生み出して蓄積していく。お互いに相手をかけがえのない人と思うためには、愛しあうことが必要である。