1. 雍也第六(143)N

雍也第六(143)論語ノート

宰我問曰。仁者雖告之日升。有仁。焉其従之也。子曰。何為其然也。君子可逝也。不可陥也。可欺也。不可罔也。

(正式)宰我問曰。仁者雖告之曰。井有仁焉。其従之也。子曰。何為其然也。君子可逝也。不可陥也。可欺也。不可罔也。

「宰我問うて曰く。仁者は之に日の升るを告ぐると雖も、仁に有り、焉んぞ其れ之に従わん也。子曰く。何ぞ其れを為すを然らん也。君子は逝かしむべき也。陥るべからざる也。欺くべき也。罔うべからざる也。」「宰我(函谷関の鶏鳴を)問うて曰く。仁者は日の出を告げられても仁者として(落ち着いて)行動し、どうして之(鶏の鳴き真似)に従うことがありましょうか。子曰く。どうして其れ(開門)を(鳴き真似に騙されて)為したことが当然だといえるのか。君子ならば、(知って関所を)通過させてやることはあるかもしれないが計略にかかってそうすることはあるまい。(口まねで鶏の鳴き声だと)騙すことはできても、(朝が来たとまで)錯覚させることはできないのだから。」

この章は正統な訓じ方が「仁者は之に告げて、井に仁(ひと)ありと曰うと雖も、其れこれに従わん。」として複雑であるため、私は違う訓じ方の可能性について検討してみました。そして「仁者雖告之曰。井有仁焉。」の「曰。井」の部分が恐らく「日」「升」の二字か、もしくは「昇」の一字の表記違いだと考えて新しい読み方を想像してみました。これは宮崎先生が、雍也第六(124)で「回や惎(おし)うること三月、仁に違わずなりぬ」として「其心」を「惎」の一字と考えたことにならう視点ですが、私の場合は宮崎先生のように高尚な論考ではなく、単なる思いつきです。そして「日升」といえば詩経の中にも「如日之升」とありますが日が昇ることであり、日が昇ることを告げて云々という問答なのであれば雍也第六(143)は「函谷関の鶏鳴」について孔子と宰我が対話を行ったという想定の章として読むこともできると考えました。もちろん函谷関の鶏鳴の主役である孟嘗君は、中国戦国時代の人であり没は紀元前279年頃とされます。そのため、本来孔子(没紀元前479年)よりも以後の人であり、孔子が孟嘗君を云々することは歴史上はあり得ないことです。しかしあり得ないことがあり得るとしてみるとこの章をすっきりと読むことができます。

「函谷関の鶏鳴」は孟嘗君が秦を逃れて夜中に函谷関に到着した時、決まりとして早朝の鶏が鳴くまでは関所は堅く閉ざされて通行できないことから、従者が鶏の鳴きまねをして門番がそれを聞き関所を開門したため無事に脱出することができたという故事です。その故事を、宰我が孔子に問います。宰我としては「もしも関所の番人が仁者であれば、鶏の鳴きまねなどに騙されることはないでしょう。」と質問をします。しかし孔子は、「何故騙されたと考えるのか。」といいます。「番人は君子として孟嘗君を通過させてやったのだろう。鶏の鳴きまねで朝だと騙されることなどありえない。」と述べて宰我に対して表面的なことでなく実体は何なのかを読み取ることの必要性を伝えます。

論語が論語として実際に編集されたのは、「函谷関の鶏鳴」の故事よりも後の世のことでしょうから、伝説の人物である孔子についての創作の対話としてこの章は編入されたのだと考えるとあり得ない話ではなくなります。私の奇論も論語の深さに思いを致す一助となるでしょうか。