1. 子路第十三(327)N

子路第十三(327)論語ノート

子曰。君子易事而難説也。説之不以道。不説也。及其使人也。器之小人難事而易説也。説之雖不以道。説也。及其使人也。求備焉。

子曰く、君子は事え易くして説ばし難きなり。これを説ばすに道を以てせざれば説ばざるなり。それ人を使うに及ぶなり。器の小人は事え難くして説ばし易きなり。これを説ばすに道を以てせずと雖も説べばなり。それ人を使うに及ぶなり。備わらんことを求めんや。

子曰く、君子には事え易いが、気に入られることは難しい。君子が事え易いのは、仁の道を以てしなければ悦ばないからだ。それは人を使うということに及ぶ問題だ。器の域の小人は事え難いが、気にいられることは簡単だ。器の域の小人が事え難いのは、仁の道を以てせずとも悦ぶからだ。それは人を使うということに及ぶ問題だ。諸君にはその力が備わることを求めたい。

この章の従来解釈は子貢に遠慮して「器」の意味を読まないようにしていると思います。つまり「器の小人」と読まずに「これを器とす」と読んで人材を適所に器として使うのが君子であり、その下では適所の仕事をあてがわれるので事え易いと読みます。そして小人は配下の者に万能を求めて来るので、その下では振り回されて事え難いという意味に読んで来たのです。しかし、私は別の解釈をしたいと思います。

まず「器之」を「之を器とす。」と読むことについて考えてみます。君子は、配下の者の力量を知り、適材を適所に配置して使うことは、その通りだと思います。しかし例えば公冶長第五(095)で孔子が子貢に「女(なんじ)は器なり。」と言いますが、それは孔子が子貢を器にしているのではありません。孔子は子貢のことを器であると評価しているだけです。 論語の中で「器」という文字が使われるのは、子路第十三(327)を含めて為政第二(028)「君子は器ならず。」八佾第三(062)「管仲の器は小なるかな。」公冶長第五(095)「女(なんじ)は器なり。」衛霊公第十五(388)「その器は是の邦に居ればなり。」の五章です。これらは「こまごまとした実用に使われるもの」「うつわ」「器量」という意味で名詞的に使われています。この子路第十三(327)において、「器とす。」「適材を適所に配置する」という意味に解釈することは、やはり他章と比較して子貢に気を遣っているように感じられます。

それでは、私がいうように「器之小人」という用法は論語の中で他にあるのでしょうか。そもそも為政第二(028)に「君子は器ならず。」とあります。君子が器でないなら小人は器だということになります。ただし「器の小人」のように「小人」という言葉を修飾する用法は他章では一切見られませんでした。しかし例えば「古の賢人」「今の成人」「士の仁者」という用法は見られます。そのため「器の小人」という言い方も間違いとは言えないでしょう。

次に「求備焉。」についてです。「備わらんことを求めんや。」とは「焉」字の用法として、「備わることを求めたい。焉んぞ求めずにおいてよいものか。」という文意であると解釈できます。ここは「焉」をもって孔子の願いを表していると解釈するべきだと考えます。「求備」を「備わることを求めてくる。」として良い意味に解釈しないのは微子第十八(470)に「無求備於一人。」とあり「備わるを一人に求むることなかれ。」という意味に解釈されていることも反映していると考えられます。しかし、微子第十八(470)では、能力が備わることを一人に求めることなかれという文脈であるのに対して、この子路第十三(327)は、人を使うに及ぶ能力が諸君に備わることを求めたいという期待の表明であって、文脈が違うため意味も違うと解釈したいと思います。

そして、「及其使人也。」「それ人を使うに及ぶなり。」についてです。この章は前段から「悦ばし難きなり。」「悦ばざるなり。」と重ねてくる文脈なので、「及其使人也。」についても「及ぶなり。」と読むことが自然だと思います。従来解釈では、及ぶについては、「その人を使う時には」という意味で機に及ぶと考えられています。私はここを「人を使うことに及ぶ」として人を使うという領域の話に関わってくるという意味に考えています。

そして私がいうように「器之。小人」を「器の小人」と読み、且つ「求備焉。」を「備わらん事を求めんや。」と読み、且つ「及其使人也。」を「それ人を使うに及ぶなり。」と読むとすれば、従来解釈にある君子に事え易い理由としての「これを器とす。」ということ。小人に事え難い理由としての「備わることを求める。」ということが説明されないのではないかという疑問がうまれます。

その点についての答えを子路第十三(327)をAからGに分割して考えてみます。

A「君子易事而難説也。」      B「説之不以道。不説也。」   C「及其使人也。」
 D「器之小人難事而易説也。」   E「説之雖不以道。説也。」   F「及其使人也。」   G「求備焉。」

まず、従来解釈ではAの「君子易事而難説也。」「君子は事え易くして悦ばし難きなり。」に対しては、Bによって、何故君子は悦ばし難いかを説明しているとされてきました。しかし私はそうではなくて、Bは何故君子に事え易いかをも含めて説明していると考えます。つまり君子は仁の道にかなう行いをすれば悦ぶことが決まっているので、どうすれば悦ばれるかは自ずから明らかであり、事え易いということなのです。しかし仁の道にかなう行いは必ずしも平坦な道ではないので、そういう意味では悦ばし難いということです。そして君子は配下の者が仁の道にかなえば悦び評価をするので、自然とそれらの者も仁に導かれます。それがCにいう人を使うという領域の話に及ぶのだということなのです。

次に従来解釈ではD「器之小人難事而易説也。」「器の小人は事え難くして説ばし易きなり。」に対しては、Eによって、何故小人は悦ばし易いかを説明しているとされてきました。しかし私はそうではなくて、Eは何故小人に事え難いかをも含めて説明していると考えます。つまり小人は自分の利益を基準にして悦ぶので、どうすれば悦ばれるかは、その小人の価値観によって決まるために不確かであり、事え難いということなのです。しかし小人の価値観などは単純なものなので適当にあしらえば悦ばし易いともいえます。そして小人は配下の者が仁の道に外れても自身の利益にかなえば悦び評価をするので、必然として、それらの者は仁に導かれることがないのです。これもFにいう人を使うという領域の話に及びます。

つまり人を使う者は、その配下の者が仁の道に立てば、それを悦ぶことによってさらに仁の道に導くのであり、自ら仁の道に立っていなければ真の意味で人を使い導くことは出来ないのでしょう。それが人を使うに及ぶ仁者と、人に使われるべき「器」との違いであるといえます。孔子は、人を使う領域に及ぶ仁者としての能力をG「求備焉。」「諸君にはその力が備わることを求めたい。焉んぞ求めずにおられようか。」と願っています。この章には為政第二(028)の一節を挿入して読むと、さらに良いと思います。
子曰。君子易事而難説也。説之不以道。不説也。及其使人也。器之小人難事而易説也。説之雖不以道。説也。及其使人也。君子不器。求備焉。
「子曰く、君子は事え易くして説ばし難きなり。これを説ばすに道を以てせざれば説ばざるなり。それ人を使うに及ぶなり。器の小人は事え難くして説ばし易きなり。これを説ばすに道を以てせずと雖も説べばなり。それ人を使うに及ぶなり。君子は器ならず。備わらんことを求めんや。」ということです。つまり、君子は器ではない。人を使うための能力を身につけて欲しいということが孔子の真意なのでしょう。