1. ハローワールド

ハローワールド

堀川五条の図

2019年9月20日に上映を開始した98分間の映画。伊藤 智彦監督、野﨑 まど脚本。一行瑠璃(いちぎょう るり)と堅書直美(かたがき なおみ)の恋の過程が丁寧に描かれていて、心動かされる。SNSで幅広く繋がりをもつ現在の社会では、個人の思いがついたてなく周囲に拡散してしまうという不安を感じざるを得ない。SNSを駆使せず、近づき難く読書好きな一行瑠璃というヒロインは、そうした不安の対局に位置する存在として描かれたのかもしれない。

実際のところはわからないが、直美と瑠璃が、お互いにかけがえのない存在に転化する理由は、必ずしも「最強マニュアル」だけを導きとするものではなくて、日常の関わりの中に心惹かれあう事実が示される。そして一旦、それぞれが心に決めた存在となったとき、その後の人生をかけてお互いを守る力が生み出される。

正式なシナリオにおいては、物事を逆転して捉えるのが正しいのかもしれないが、10年の歳月を費やして、ナオミがルリを助けたことは紛れもない事実として存在している。そのため一度目の改ざんによって目覚めたルリは、その後の世界を生きることになるはずだ。確かにルリは、遅かれ早かれ本のエピソードなどを想起して、再演の事実を理解することになるだろう。そしてナオミは、確かにリカバリーのボタンを押した。そして一旦は、10年前の堅書直美は消去されたのではないだろうか。

ようやく再会を果たしたルリとの会話の中で、「あなたは堅書さんではない」と言われたナオミの心中はどうだろうか。そうした過度な精神的負担をともなう出来事や、過度に試みた過去へのダイヴの後遺症が重なることでナオミが倒れ、意識不明の状態に陥ってしまうこともあるに違いない。エンドロールの途中で、ナオミが残したと思われるアルタラセンター長、千古宛のメモが映し出される。例えばそこにルリが意識を取り戻すまでの経緯が記されていたとすればどうだろうか。

堅書直美が一行瑠璃を失ってから、10年、その後のナオミがどれほどの努力を経て、ルリを助けることになったかが、千古宛てのメモの内容からでも、その事実の断片でも、ルリが知ることができたとするならば、それはナオミを堅書直美その人として捉えることができる程の事実ではないだろうか。それから10年、否15年の歳月をかけたとしても、今度はルリがナオミの意識を取り戻すための努力を惜しまないことは想像に難くない。

堅書直美の生きている時代のリカバリーが終了して、堅書直美自体が一旦消去されるとすれば、どうなるだろうか。恐らくは再び堅書直美と一行瑠璃が出会うことになり、その後、避けがたく事故に遭うことになるだろう。そうするとその10年後に再びカタガキナオミが事故を防ぎに到達することになり、観客が見たのと同じような転送を試みることになるに違いない。実際の映画でもカタガキナオミの改ざん行為そのものがアルタラに記録されたデータであったように描かれていたのだから。

しかしながら転送後の現実世界のイチギョウルリは、既に事故の10年後に目覚めて、その後の人生を歩んでいるから、その後にカタガキナオミが何度再演を実行しようがしまいが、10年後には目覚めたものとして、記録が作られて確定していくことになる。つまりそうして現実に目覚めたイチギョウルリがその後の人生を歩む中で、自分を救ってくれたカタガキナオミを愛することになると想像できる。

一旦、一度目の改ざんが確定して、過去記録がリカバリーされてしまうと、一行瑠璃は事故で脳死となり、10年間眠ったままであったが、10年後に奇跡的に意識を取り戻すという筋書きは確定した事実となる。それまでに堅書直美は一行瑠璃を救うために苦学を乗り越えてアルタラセンターへ就職し、そして過去記録へのダイヴに成功し、データの転送を試みて成功するという伏線も記録される。しかし、イチギョウルリとカタガキナオミが病室で狐面に襲われる理由はないだろう。それは既に動かしようのない安定した過去記録なのだから。

ところでなぜ現実世界で目覚めたイチギョウルリは、カタガキナオミを愛することができるだろうか。自分が恋した堅書直美を消去したのがカタガキナオミだというのに。それは、前段に書いたように、なぜカタガキナオミがイチギョウルリを救ったのかを知ることによるだろう。しかし、イチギョウルリがその経過を知ったとしても、堅書直美のもとへはもう帰ることはできない。なぜならイチギョウルリは現実世界を生きている生身の人間だから。だからこそ、自分が目覚めてから10年後か15年後か歳月を経た後に、何度リカバリーされようとも、一行瑠璃を救おうとする堅書直美の、その何度目かの再演の瞬間に、最新の技術で作られたカラスを送ってイチギョウルリを取り戻す、その手助けをするのだろう。

そして映画の観客は、堅書直美がリセットされそうな状況下に、再び現れたカラスの力を借りて、一行瑠璃の意識が転送された時代へ移動したその後の話を知る。これは何度目の再演かはわからないが……。つまり、いつの時点かはわからないが現在進行中の世界から、堅書直美のリカバリーを阻止するために改めてカラスが派遣される。それはつまり、堅書直美に最後まで終わらせない行動を取らせるという新たな書き換えを意味する。そして堅書直美が、一行瑠璃を取り戻す意思をもって、別の過去記録にアクセスして、イチギョウルリとカタガキナオミのいる病室へ現れようとするからこそ、それを阻止するために狐面が現れ、イチギョウルリを消し去ろうとするのではないか。その後の展開は映画の通りであり、それは結果的に、堅書直美を助けようとするカタガキナオミの行動を生み出すことになる。それはつまりカタガキナオミの意識をサルベージするための再演にもなっている。そもそも、堅書直美をリセットするという自分本位の選択の重みを再演を通じてやり直すことは、ナオミにとっての生き直しになる。そうした再演の成就という、閾値を超えたしょく罪の精神のデータ転送によって、現在進行中のナオミの意識が再生されるという話に繋がるのだと思われる。それは同時に、堅書直美と一行瑠璃が生き残るという新たな書き換えをも成立させる。それは矛盾した世界を幾通りでも許容するようにアルタラのシステムを変更することでもあった。

イチギョウルリのデータが一行瑠璃にコンバートされて堅書直美のもとに戻った。それを実現し見届けた現実世界を生きるイチギョウルリの精神も、ある意味では過去の堅書直美のもとへ戻ることができたのではないだろうか。そしてカタガキナオミは、堅書直美をリセットせずに、一行瑠璃を堅書直美のもとへ帰らせることができた。このように二人の過去経験の清算を通じて、堅書直美と一行瑠璃の新たな祝福すべき人生の始まりを実現させたからこそ、現実世界のイチギョウルリとカタガキナオミは、この先を共に生きていくことができるのだと思う。

コンバートされたイチギョウルリと、すべてを成し遂げた堅書直美がリカバリー後の過去記録へ戻るとき、そのリカバリー後の世界には、既にリカバリーされた一行瑠璃と堅書直美が存在したのではないだろうか。同時間が流れる同記録へ同一人物が戻るということは、恐らくは同一ファイルの上書きとして、処理されるのかもしれない……。

この映画は、消すことのできない過去があっても、併存する別の新しい生き方をたどることで、後の人生をいくらでも補うことができるという展望を感じさせるものとなっている。ナオミの行動とルリの行動によって、二つの世界が共に祝福されるべき始まりを迎えることができたと捉えればよいのではないだろうか。観客はそういう理解で映画館を後にするので、事実もそのようなことであってほしいと願う。