1. 学而第一(016)N

学而第一(016)論語ノート

子曰。不患人之不己知。患不知人也。

子曰く。人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患うるなり。

孔子が言うには、人が自分を知らないことを憂う必要はない。自分が、人を知らないことを憂うべきだ。

祝福とは、自分が必要と認める人に訪れた幸福を祝い、それが長く続くことを望むことをいう。全く縁のない人、先輩、上司、家族の幸福を祝福することはたやすいが、同僚や友人、知人、後輩の幸福は必ず祝福されるとは限らない。既に自らが得たものを他者が新たに得るときには、その幸福は受け止めやすい。しかし自らが得ていないものを他者が得たときには、先を越されるか裏をかかれることでもあり、心中は穏やかではない。それが家族の努力の成果であれば、我が事として受け止めやすい。それが身近な他人のことであるほど、自身への衆目が削がれる原因であり、脅威となる。しかし一体として協力関係にあるものの幸福であれば、回りまわって自身の安心につながるものと理解できる限り、祝福の対象となる。そうして考えてみると、他人を祝福できることは、ある種の能力であり、自身の高みや社会性や精神的な成長度合いが反映することになる。ならば改めて考えてみると、先輩や上司の幸福を受け止めやすいのは、学ぶべき人、尊敬すべき人、目標とすべき人として初めから捉えているからではないだろうか。もしもそうであれば、初めから周囲の人すべてを学ぶべき人、尊敬すべき人、目標とすべき人として認めるようにすれば良いのかもしれない。人の努力の方向はそれぞれであり、それぞれの高みがあるのだから、それを知らないことがその祝福を阻害する原因なのではないか。それが論語の学而第一(016)に記されている意味ではないだろうか。