1. 衛霊公第十五(416)N

衛霊公第十五(416)論語ノート

子曰。事君敬其事而後其食。

この章は「子曰く。君に事うるには其の事を敬しみて、其の食の後にせよ。」と訓じると思います。現代語訳としては「君に事えるならば、敬しんで民の信を得て、その君と百姓の食が足りて後のこととせよ」となると思います。

衛霊公第十五(416)を訓ずるにはまず「敬其事」の解釈が必要です。「その事を敬しむ」とは学而第一(005)「千乗の国を道びくには、事を敬しみて信あり。用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす。」に説明されています。学而第一(005)は事を敬しめば「民が政治を信頼する」ことを述べており、事を敬しむことの例として「事業を節する。農閑期等の時期を見て民を使役する。」ことを挙げていると考えられます。この事から衛霊公第十五(416)にある「事君敬其事」とは、「君に事えるならば、敬しんで民の信を得よ」という意味だと考えられます。

「君に事えるならば敬しんで民の信を得よ。」に続いて「後其食」の読み方を考えます。宮崎先生は「其の食」を「仕官するものの報酬」と考えられました。私は「其の食」とは「君と百姓の食」のことだと考えます。そしてその文意を、宮崎先生は「仕官した以上は、その職責を第一と考え、その報酬のことは後回しにする。」とされています。私は「食が足りない国政ならば官職にのさばる事なかれ」という趣旨ではなかろうかと思います。つまり「後其食」は「其の食を後にす。」ではなく「其の食の後にせよ。」と読みたいところです。

この章の読み方を考える際に、関連する他の章を参考にします。顔淵第十二(285)で子貢が政を問うたことに対して孔子は「食を足らわす。兵を足らわす。民が政治を信ずることかな。」と答えます。さらに子貢が「三つの内やむを得ず去る場合には何を先にしますか?」と質問をします。それに孔子が答えて、兵を去り、次いで食を去るとし、「民の信頼が無かったら、それこそ国は成り立たない。」と云います。同じく顔淵第十二(287)で有若が「百姓が足れば君が足りないことはなく、百姓が足りなければ君は誰と共に足るのか」と云っています。これらのことから「食が足る」というのは、「君の食が足る」という意味であり、同時に「百姓の食も足る」ということだと考えられます。その上でさらに食が足れば国防上必要な兵も整えることができるという考え方です。さらにいえば、君に助言を行う官も食が足りて後に務めることができる性質のものだと考えられないでしょうか。官がのさばり、百姓から年貢を取り立てて、その上にあぐらをかくなら、それはもう政治ではなく、先進第十一(269)に云う「小子、鼓を鳴らしてこれを攻めて可なり。」ということになります。つまり食が足りなければ助言を行う官も本来は去るべきなのかもしれません。

ここまで考えて気づくことがあります。顔淵第十二(285)が説明していることと、衛霊公第十五(416)が説明していることは同じではないでしょうか。まず、「君に事える」=「政を行う」には「敬しんで民の信を得る」ことが第一であり、次いで「其の食」が大切であり、その後に顔淵第十二(285)では「兵を足らわす」のであり、衛霊公第十五(416)では「仕官せよ」ということです。役人を仕官させることと、兵を足らわすことは、共に「其の食の後にせよ」という意味に理解しても悪くはないでしょう。こうして他の章を参考にすると、「君に事うるには、その食の後にせよ」という考え方もあり得るように思えてきます。

今のところ私が読み進めて知っている限りでは論語には三カ所「後+名詞」の用法があります。この場合には「~の後にする。」と訓じると思います。これは、もともと「後」という字が、足を引きずって遅れるという意味だそうですから、何に遅れるのかという語を補うと、「~から遅れる。」「~の後にする。」という意味になるのが自然だと私は考えます。実際には、文章の意味するものを考えていくと、そういう用法があるのだろうと推測できるという程度の事ですが。

具体的には八佾第三(048)の「後素」で「素の後にす。」、子路第十三(314)「後仁」で「仁の後にす。」、そしてこの衛霊公(416)の「後其食」で「其の食の後にせよ。」です。

しかし「後+動詞」の場合には「後に~する。」と訓じるように思います。論語では「後+動詞」の場合が圧倒的に多いので、「後+名詞」の用法は、宮崎先生が「後素」を「素の後にす。」と訓じるまでは区別されることが無かったと思われます。