1. 季氏第十六(431)N

季氏第十六(431)論語ノート

孔子曰。見善如不及。見不善如探湯。吾見其人矣。吾聞其語矣。隠居以求其志。行義以達其道。吾聞其語矣。未見其人也。

孔子曰く。善を見ては及ばざるが如くし、不善を見ては湯を探るが如くす。吾れ其の人を見たり。吾れ其の語を聞けり。隠居して以て其の志を求め、義を行いて以て其の道を達す。吾れ其の語を聞けり。未だ其の人を見ざるなり。

孔子が言うには、善を見ては等しくあろうと思い、不善を見ては、内面を省みようとするのが人の生き方だ。私は、そういう人なら見たことがある。私は、そういう話も聞いたことがある。ところが、隠居して、その志を求め、整然と自らの道を達する人があるなどとは。私はそういう話を聞いたことはあるが、未だそんな人には、お目にかかったことがない。

本章を読んでいて、ふと里仁第四(083)が頭に浮かびました。「子曰。見善思斉焉。見不善而内自省也。」「善を見ては等しくあろうと思え。不善を見ては内に自らを省みよ。」実際には里仁第四(083)は、「善」ではなく「賢」なのですが、ふと思い浮かんだ両章のつながりから、「見善如不及」は「善を見ては等しくあろうと思い」と訳し、「見不善如探湯」の湯を探るとは、きれいなお湯の中に汚れを探すような意味に解釈し、「内面を省みる」と訳すことができました。

この章は、人間というものが社会的な関係性の中から自らを高めてゆくものであり、人から隠れ住んで、ただ一人で悟りの境地に至るようなものではないと孔子が述べたことを伝えていると解釈します。「そんな作り話なら聞いたことはあるが、実際に見たことはない。」という意味に理解しました。人と関わってこそ自分の成長がある。一人で隠れていても成長はないということを述べていると思います。