1. 季氏第十六(432)N

季氏第十六(432)論語ノート

誠不以富。亦祇以異。斉景公有馬千駟。死之日。民無徳而称焉。伯夷叔斉。餓于首陽之下。民到于今称之。其斯之謂与。

誠は富によらず、亦異なるを以て祗(つつし)む。斉の景公には馬千駟あり。死するの日、民徳無くして称せり。伯夷、叔斉は首陽の下に餓う。民、今に至るまで之を称す。其れ之を斯きて与(とも)に謂う。

民の誠意は富によって生み出されるのではない。富でない別のものによっても民は君主を尊び礼をつくすものだ。斉の景公は馬四千頭も持っていた。景公が死んだ日に民は徳の無い景公をたたえた。一方、伯夷、叔斉は首陽山の麓で餓死しなければならなかったが、民は今に至るまで之をたたえている。民は其れを違うものであると判断しながら共に謂う。

この章は、顔淵編(288)の章に誤って挿入されている「誠不以富。亦祇以異。」を、文頭において読むという説があり、私もそれに従っています。この「誠不以富。亦祇以異。」は従来「誠に富を以てせず。祇(ただ)異を以てするのみ。」と読まれており、「祇」の字は「祗」の字と歴史的に混同された用法として「ただ」と読まれています。文意としては「誠に富は万能でない。その他にも大事なものがある。」と解釈されています。私は、この章の場合は「祇」の字は「祗」の字の一部が剥落するなどした結果「祇」として伝わっていると解釈したいと思います。そのためここは「誠不以富。亦祗以異。」「誠は富によらず、亦異なるを以て祗(つつし)む。」と読みたいところです。「亦」の字は、「前段と同じく後段」として文章をつなぐ意味があります。そして「異」の字には同一でなく別にもう一つという意味があり、富だけでない別のものという意味を表していると考えられます。つまり、前段で「誠意は富によってもたらされるものではない」と述べ、同時に後段で「富でない別のものによってもつつしまれる」という趣旨を表していると考えられます。しかし「異」という字が、区別された二つのものという意味を持っているために、ここは「富」の全面否定という訳ではないと私は思います。

「民無徳而称焉。」は「民は徳無くして称せり。」と読むと私は考えます。泰伯第八(185)にも「民無得而称焉。」「民得る無くして称せり。」というくだりがあります。徳は素直な心で行うことでもありますが、後天的に修養によって得た精神的な高みという意味でもあります。徳の原義は後得の性をさすものであろうと宮崎先生も憲問第十四(367)の説明文の中で述べておられます。(「論語の新研究」岩波書店 参照)徳つながりの共通性を感じる二つの章ですが、それぞれ季氏第十六(432)では「景公に徳が無くても称する」のであり、泰伯第八(185)では「泰伯は弟の季歴に天下を譲ったため民は直接的な治世として得るものが無くても称する」のだと思います。

「其斯之謂与。」は、従来から「其れ斯れの謂いか。」と読まれてきました。文頭に「誠不以富。亦祇以異。」を挿入した上で、これを古語の引用と解釈し、それに続く景公と伯夷叔斉の例を受けて「古語はこの例を謂うか。」という自問の帰結の意味に解釈するのです。しかし私は、文頭の古語が新しい解釈を前提として引用されたものであると考えつつ、この優れた従来解釈から離れて別の解釈を採用したいと思います。

「其斯之謂与。」は、「学而第一(015)に同じくだりがあります。「斯」の字を動詞の「さく」と考えて「其れ之を斯きて与に謂う。」と読むと私は考えます。これはあるものを区別しつつも与に謂うという意味です。この章においてあるものを区別して与に謂うとは、民が「富を持ち徳の無い景公を称すること」と、富はなくとも「徳を貫いて餓死をした伯夷叔斉を称すること」を指しています。つまり民は一見すると君主を称賛し、その治世に従いますが、そこに徳が無ければその本心までも従わせることはできないという意味を表していると私は解釈します。そして同時に、徳を貫けば、顔淵第十二(285)「古より皆死あり。民は信無ければ立たず。」にあるように、たとえ餓死をする結果となっても民はこれを称賛するのであり為政第二(017)「政を為すに徳を以(もち)いる。譬えば北辰の其所に居りて衆星の之に共うが如きなり。」の可能性も示されているといえます。孔子達はここに、あるべき道を見いだしているのでしょう。

もしも、この章の文頭に「誠不以富。亦祇以異。」が挿入されない場合でも「其斯之謂与。」を「其れ之を斯きて与に謂う。」と読む場合には全体の文意を保つことができます。しかし「其れ斯れの謂いか。」と読む場合には文頭に「誠不以富。亦祇以異。」を挿入しなければ「其れ」が何なのか不明となり文意を保つことができません。そして「誠不以富。亦祇以異。」が挿入されたことによって論語に編集上の誤りが存在するという事実が示されました。論語の解釈上これほど画期的な成果はないでしょう。