1. 先進第十一(267)N

先進第十一(267)論語ノート

子曰。由之瑟。奚為於丘之門。門人不敬子路。子曰。由也升堂矣。未入於室也。

子曰く。由の瑟(しつ)。なんすれぞ丘(きゅう)の門に於いて為さん。門人、子路を敬せず。子曰く。由や、堂に升れり。未だ室に入らざる也。

孔子が言うには、子路の琴の腕前は、どうして私に聴かせる程ではないな。これを聞いて、孔子の門人が子路を軽視し始めた。孔子が言うには、子路の琴は上出来だ。ただ私の水準でいう完璧ではないだけだ。

本章の、「堂に升る。室に入る。」という言葉が面白いと思います。堂が表座敷。室が奥座敷だと広辞苑には説明されています。また「丘の門」や「門人」という言葉も、精神世界における孔子の弟子であることを敷地の内側にいるものとして捉える表現だと思います。このように本章は、弟子であることが門人であり、水準に適うことが、堂に升り、室に入ることであるという論語の表現法のひとつの見本になっています。孔子の水準に適わないことを「建物に足を踏み入れることができない。部屋に入ることができない。」として表し、精神世界で修養の高みに至ることの難易度が、物理的な「敷居の高さ」で表現されているのです。

日本語の「敷居が高い」という言葉の誤用とされてきた、さまざまな「敷居が高い」の別用法は、実は論語に由来するものかもしれません。このように理屈をこね始めることを、論語では子張第十九(478)「子夏曰。小人之過也必文。」と言い、衛霊公第十五(408)「子曰。過而不改。是謂過矣。」とも言います。間違いはあっさり改めつつ、由来を異にする可能性について、示唆しておきたいと思います。